はてなブログ・・・略・・・小説、26日目。

 少女の叔母が言ったことを彼女の親友は理解できなかった。その言いようは論理が逆さまですらない。何となれば、自分を拒否したのは少女の方ではなかったのか。彼女がハサミで切り落としたはずの紐を親友は惨めにも自らくっ付けに戻ったのだ。

 叔母がワイングラスを置く際に生じた音とか、どうでもいいことが彼女の耳の中で増幅されるのはどうしたことだろう。妖精たちが、この段階では彼女が考えつめないように妨害しているのだが、彼女はあいにくとそんなことに気づくほど年齢を重ねていなかった。

 そういう様子をまるで自分の患者を診るように、少女の叔母が見えない触手を伸ばしたのは、ほろ酔い程度に彼女の脳がアルコールによって浸食されつつあったからだろう。そもそも、患者と見定めない相手をそのような目でみることは慎むべきことである。身内の親友が相手なればそれは当然のことであろう。血縁者を診ないことが精神分析医にとって常識ならば、その親友はさしずめ、いとこ、ということができるだろうか。

 親友は自分でも気づかないうちに立ち上がると、両手を強く握りしめていた。さほど長くもしていない爪が手のひらに食い込んで赤くなっているどころか、血が滲んでいた。

 まるで人を刺してから、自分がやったことの重大性に気づく殺人犯のように自分が思われた。すると、自分はいったい誰を殺したというのだろう?それは擬人化されたなにものか、かもしれない。それを具体的に表象することは彼女にはできなかった。もしもしていればにこやかに笑っている少女以外のどんなものも造形できなかっただろう。そして、それを実行していたら、彼女こそ自分の身体から逃走を図っていたにちがいない。

 

それを見抜いてしまったからこそ、少女の叔母は何とか助け舟を出そうと、ワイングラスを置いたのである。橋にかかっている時計をみるとすでに針は午前1時半を回ろうとしていた。彼女を落ち着かせるのに、その通りのことを言うのは火に油を注ぐも当然の愚行にちがいない。だからといって、もっと混乱しろと咳かすわけにもいかない。

 専門家としては彼女から何事か引き出すためには、座ってもらうことを何よりも望んだ。軽く手を振るなどして無言で促してみるが、全く無反応だ。今日のところはこれ以上踏み込むべきではない、などとまるでクライアントを相手にしているような考えをしているところをみると、まだアルコールが抜けきっていないらしい。

 気が付くと、精神科医として、または大人としてごく常識通りの行動に出ていた。

 「もう寝た方がいい。客室に案内しよう」

「おばさんは精神科のお医者さんですよね、あの子はいったいどうしちゃったとみてるんですか?」

 「身内は診ないのが精神科医の、いわば、憲法みたいなものでね」

「精神科医と患者の恋もご法度なんですね」

「よく知ってるね」

 客室に誘うためにドアを開けた叔母は、姪の親友の顔を眺めていた。彼女はそっと目を伏せて、まるで婚礼の席で新郎を前にした新婦のような白い顔をしている。何か言いたげなのだが言葉が見つからずに困っているわけではない。あえて、そういうふりをしているだけ、という感じがする。

 叔母はすでにドアノブを右手にかけつつ振り返っている、この不自然な姿勢を何時間も続けてもいいような気がしてきた。この情景をいくら眺めても飽きないような気さえしてくる。あの唇が動くと、すでに何度もその声を聴いていながら、どんな声が迸るのか知らないように思える。

 あらゆる時間から切り離されて彼女と自分が占める狭い空間だけが孤立している。無限とも思える時間が過ぎたのちに彼女の質問を思い出した。

「先ほどの質問だが、あの子がどうしてあのようなことを言ったのか、少なくとも私は知っている」

 自分で言いながらそれが答えにならないことはわかっていたが、無意識に自分の身体に任せてそいつに言葉を任せることにした。

「それは・・・・彼女から直接、訊きたいと思っています。彼女の口から直接・・・」

まるでそういう回答があることを、あらかじめ叔母は知っていたような気がする。たしかにそれがベストなのだろう。この子ならば、彼女が背負っている重荷を、肩代わりはできないが軽くしてやることぐらいはできるだろう。

 まるで執事のように開いたドアの前を彼女が通るのを眺める。まるで幽霊が素通りするゆうに足が動いていないようだ、そもそも幽霊に足などあるはずはないのだが、動かない足ならばあってもいいとも思う。何か声をかけないといけないような気がした。時間を超越した視点からすれば、ここで何かをアドバイス的なことをする予定があるはずだ。

 このままではいけないと思うが言葉が浮かばない。彼女を患者だと仮定すれば、精神科医として言葉を失うということは職業倫理上許されないはずだ。だが、そう自分に対して強く言い聞かせてもなかなか反応してくれそうにない。

 無言のまま廊下の奥にある客室のドアノブを捻っていた。

 照明のスイッチを押すと、空気を乾燥させるような音が響き渡った。それが言うべき言葉を思い出させてくれた。

「君は自分を偽っているだろう?そんな人が何を言っても説得力がないと思うぞ」

 姪の親友はただきょとんと黒目がちな瞳を揺らしているだけだった。それを置いたままにして部屋を後にした。何の作為があったわけでもない。