略・・・・小説、5日目

 四月の冷たい雨が視界を遮る。朝、起きたときは晴天の青が宇宙まで突き抜けて尖塔を形作っていたのである。誰もが傘を持っていかないと思っていたら、クラスのほどんどが持参していて驚いた。

 そして、今は放課後、帰宅の電車のなかで不安げに黒い雲の沈黙を睨み付けていたのだが、最寄りの駅、一歩手前でついにそれは圧倒的な落雷の叫びによって破られてしまった。

 おもむろに降り出した雨。

 最初はそれでも電車の窓をかわいらしくノックしていただけだったが、すぐにガラスを破らんと想像させるほどに激しくなった。鉄の板で四面を守られているにもかかわず、全身に突き刺さるような気がした。

 とうてい雨はやみそうにない。

 この状況では濡れ鼠になって玄関を濡らしてしまうことになろう。

 思わず、少女の目のまで眠り惚けている和服の老婆から傘を収奪しようと思ったが、周囲の目と生まれてから持ち合わせてきた羞恥心がそれを彼女に禁じた。だが、駅に降り立つ前に強く睨み付けることくらいは神様の許してくれるだろうと、高をくくったが、右足が地面につくと同時に老婆の目がかっと見開いた。

 枯れ木を思わせるほどに動かなかった老婆の身体にエネルギーが、外から見ていてもわかるほどにみなぎってきたのである。少女は恐怖のあまり1、2歩引き下がざるをえなくなった。

「・・・・!?」

 それは鷹の目だった。

 「盗んだ!私の傘を盗んだ!!」

 電車に残る人、少女と一緒に降りようとしていた人、すでに降りた人、みなが少女に疑義の視線を送った。老女が、自分の子供を殺された母親が犯人を告発するように少女を指さして叫んだからである。

 三種の人々が注目したのは、老女が示したであろう黒い傘が少女の方向に転がっていたからだ。おそらく、彼女の叫び声によって少女に視線を送った大多数の人は、状況証拠だけから彼女が盗もうとしたと確信したにちがいない。

 少女の美しさはこの際、その疑いをむしろ目立たしただけに補強する役割を果たしただけである。無罪と有罪をわけるボールは、急激に後者の方向へと転がりつつあった。一方、老婆は少女の罪を追及すべく周囲に協力を求めつつ、自分が用があるわでもない駅に降りた。

 「な、何よ、私、し、知らない!」

 観衆が自分を囲んでいる。老婆がものすごい目で睨み付けてくる。今にも携えている傘で自分を刺しそうな勢いた。銀色の刺は簡単に彼女の心臓を突き刺す能力を隠しているように思えた。

 すぐに駅員が呼ばれてきた。これでは痴漢扱いと同様ではないか。とある大きな駅でまじめそうなサラリーマンがちょうど今の彼女が対面しているような目にあっているのを目撃したことがあった。自分があのような屈辱的な立場に立たされるのか?そんなことはありえない。だが、少女はあのときどうしてサラリーマンがあのとき、まったく抵抗しようとしなかったのかその理由について考え違いをしていたと思い始めた。

 集団の暴力の恐ろしさ、である。

 喉がつっかえて、もはや、冤罪を叫び続けることができない。激しい雨音すら

自分を指弾している。全世界が敵になったのだと感じた。あのときの中年男がどうしあんな顔をしたのかわかった。少女はとっさに、本能から、そして、それだけでなく物理的な理由から、彼が犯人ではないことは明白だと悟っていた。それにもかかわらず、少女は虫のどころの悪さ、そのときも脳裏に母親の姿が陰っていた、それゆえに彼の弁護に動き出そうとしなかった。

 これは自業自得なのだと半ばあきらめの気持ちが沸き起こって聞いた。

「ちょっと、キミこちらに来なさい」

 駅員の荒々しい手が少女の腕を摑んだ。とっさに焼けた鉄の棒が触れたような痛みを感じた。そのときである、調子っぱずれな、すぐに子供のそれとわかる声がこのバカげた冤罪事件を強制的に幕を引かせた。

「おねえちゃん、ぬすんでいないよ、かさがころがっただけ」

 少女を含めたあらゆる目がそちらに向かう。いささか、知能に問題はあるのではないかと推察される少年が口をまごまごと動かしていた。

 彼の一言によってその場の空気は一挙に変わった。

 老婆はなおも少女の罪を主張して、尖った傘の先を差し向けてきたので、駅員たちが数人で彼女をなだめなければならなかった。

 いちど、このような証人が名乗り出るにあたって、彼女が人一倍優れた容姿をもっていることは、ボールが無罪の方向に転がる一助となった。

 少女を押しつぶさんばかりに集まっていた人たちは、まるで蜂の子を散らすような勢いで去って行った。これはどういうことか、自分の罪は晴れたようだが気分はおさまらない。

 彼女は小声ながら自分の無罪を叫んでいたはずだ。しかも、誰も彼女の罪を主張しなかったことから、その場を目撃した人はいなかったにちがいない。それにもかかわらず老女の言い分だけを、あらゆる人々が採用した。おそらく、これが世間なのだ。

 「そこの、あんた、どうしてすぐに言ってくれなかったのよ?!」

 少女は、イライラを少年に向けて、恩人のはずの彼の目の前に人差し指を突き立てた。見知らぬ外人が眉間にしわを寄せるだけでなく片言の太陽語で少女を責めだしたのは、完全に文化圏の違いがからくる誤解である。彼が属する世界は、少女の行為を性的な意味における侮辱を構成するのだ。

 またもや少女は非難を受ける羽目になったわけだが、今度ばかりは冤罪というわけにはいかない。今度、その誤解を解く役目を果たすことになったのは見慣れた顔だった。

 「ま、ママ・・・・・」

 突然、外人と自分との間に割って入ってきた、自分によく似た大人の女性、彼女をそう呼ぶにはあまりにも若すぎると理性のどこかでわかっていたにちがいない、しかしながら、事ここに至るまで彼女が受けた苦悩は、そう誤解させてもおかしくないほど深かった。

 「お、おばさん、ドレスデンからいつ帰ってきたの?」

 少女がそう呼ぶ女性は、精神科が専門の女医であって、フィアンセを連れて記憶し故郷の駅に降り立ったばかりだった。